「心の包容力」を
おおらかさと言い替える人もいるだろう。
だが
おおらかさには反面
「適当・いいかげん」といった意味を
抱く人もいる。
人には言葉をそのまま受け取らず
反面を読み取ってしまう癖がある。
わたしは
おおらかさを
「心の包容力」と受け取りたいタイプなので
自分の中にある「適当・いいかげん」な部分を
おおらかさであると代弁されるのは嫌である。
その「適当・いいかげん」は
自分を楽にさせる部分なので、そういう部分があることで
ストレスを感じないでいられる。
でも
時々自分の中で
その部分に罪の意識を感じてしまう。
人は勤勉できっちりすべきであるという観念を
捨てきれないのだ。
それが出来ていない私は
ダメな人であると言った気分にさせられるのだ。
特にどんなことでも
真面目に勤勉にきっちりする人を見ると
余計そう感じてしまう。
おおらかさの中に内包する
「適当・いいかげん」を嫌い
反面
おおらかさの中に内包する
「心の包容力」を欲する、わたしがいる。
自分の中に存在する
「適当・いいかげん」と「心の包容力」が
バランスよく私を支えていればいいけれど
どちらともいえない。
なぜなら、都合よく考えて日々に身を置く
相反した矛盾の中に自分という人間がいるのだ。
それは私だけではない行動だとしても・・・
時々私が、
意識しなければならないことなのだ。
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