私は
神も仏も信じてはいないし
存在してもいないと信じている
だが
その中で語られる道徳的な教えは
否定しない
人間の欲望が
戦いを招き
殺伐とした戦いが続いた時代に
人としてあるべき姿を
その時代の逆説に負けず説いた人々がいた。
説いた人たちの言葉が
人の心を諭し癒した結果
説いた人々は
いつか
神だとか仏であるかのようにあがめられ。
いつか、そう言う存在であるかのように
人々の中で広まり始めたのも
人が唱えた言葉と言うより
神とか仏(見えない聖なる存在)が
説いた説としたほうが
効力が増したからに過ぎないのだろう
神社仏閣に行っても
合掌して願うことは殆どない。
祈って、願って安易に叶うものなど
ありはしないと
今まで生きてきて学んでいたのもある
そこで手を合わせることで
誓いを立ててているだけのことなんだろうと
察しては、いる
神頼みで叶うものなど絶対無いから。
祈ることは決して悪い事ではない
自分の意識に
動機付けさせるセレモニーなのだから。
それを
ただ祈っておけば
いつか運が巡って、願いが叶うかもしれないなどと
安易な思いで手を合わせること自体価値は無い
自分を奮起させたい時にこそ
祈る価値はあると私は信じている
だから
神社仏閣を訪れても
安易に祈ることなど私はしない
神社仏閣が果たす価値に対しては
リスペクトすべきだと理解している
それらが現在まで続く意味は
人間が人格者であろうとする願いが
一本の柱として
脈々と流れているからだ。
人は
何時だって欲に悩まされる
それを本来なら
自分の心で制御すべきことなのだが
出来ない人が多いから
神社仏閣に、よりどころを求める
人がいるということ
感謝していますと
言う意味で
祈る人もいるかもしれないが
それを否定はしないが
私は、価値あることだとは思っていない
感謝する対象は
頑張る自分を支えてくれる人や
良き自然や運に恵まれたということなのだ
「自分の心に手を合わせる
それに価値がある」
良き人でありたい
夢を勝ち取りたい
病気が回復して欲しい
等々
自分と向き合う祈りが
願いに近づく
まず一歩だと私は信じている
障害は、自分が作る壁だから
神や仏が
ぽーーんと
その壁を取っ払ってくれはしない
先人たちが
様々な苦悩から学んだ教えや
自分が乗り越えた経験が
前に進む道しるべになることが多い
そういう姿勢があってこそなのだと
私は理解している
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